雑更新ブログ

書いては消したり 

昨日の深夜書いた怪文書供養

今年の総括として自分の人生がどう変わったかをつらつらと書こうとしたが、「アニメを見始めた」のところから突然テンションが豹変しアニメ語りになってしまった怪文書を供養する 若干個人情報であるが・・・・・

今年 総括

勉強をし始めた一年だったというか、人生でここまで勉強をちゃんとやったのは初めてかもしれない。小学生のときはぶっちゃけ勉強している内容に関心もなかったし、普通に簡単な内容しかやってなかった、愛光はちょろくてもラ・サール落ちる程度の勉強しかしてなかったので今年のほうがちゃんと勉強している。しかし中高と本当に大して勉強していない人間が急に高い目標(阪大)を掲げて勉強すると、かけた労力に対して、自分が目標の実現に近づいているという実感が小さすぎるという現象が起きる。ある程度の上澄みの中での競争が起こっている場所、わかりやすく言えば阪大冠模試とかに俺が入って行っても偏差値50行かないのだ・・・英語は60くらいなら軽く行くのが憎たらしいのだが。しかしもとから持っている能力である英語でなくても自分で勉強した化学とかが割りとちゃんとできるようになったのは気持ちが良かった。生得に頼っていないというか完全にこれは俺一人の力だ、という実感を人生で久々に得た。この感触は俺に欠落した部分であったのだ。英語ができることを褒められたところで、俺は小学生の時にはハリポタの原書くらい読めたのだ。親の英語教育がなんかうまく行ってしまったみたいなだけのお話である。そんなもの褒められても自分が自力で手に入れてきたものに対する評価との差を指摘されているようにすら感じた。俺はたまたま変なところで恵まれただけだよなぁ・・・中学お受験も同じだよな・・・としかならなかった。だからこの感触を不満足ながらにも手に入れることができたのは人生としての前進だったように思う。

音楽に対する関心が、薄れていった。昔は一日一時間くらいは音楽を聞いていたように思う。作曲もやっていた。褒めてくれる人も少しだけいたのだ。でも作曲もしなくなったし音楽も聞かなくなった。昔ほど時間がない。歌詞の付いた歌は勉強中に聴けない。俺は歌詞付きの歌とかは本当に、気が散る。そのせいだ。今思えば俺は暇だったのだ。大して友達がいるわけでもなく、そもそも長時間のコミュニケーションは耐えられなかった。中3から音楽にこり始めた。最初はヨルシカとかだったが段々凛として時雨とかcabsとか笹川真生とか・・・そういう音楽に傾いていった。少し前に気づいたことだが、俺は凛として時雨という、もし路上でライブでもしようなら眉唾ものとして扱われるであろう音楽と社会に馴染めない自分を重ねていたのだ。俺はアイデンティティの防衛作業として音楽を聞いていたのかもしれない。今でも他人に対する恐怖、押しつぶされそうな恐怖を感じる時にStill a Sigure virgin?とか聞くと落ち着く。よくわからない音楽、音楽に限らないが、いわゆる大衆受けがそこまで良くないものというのは世界を拒絶することを肯定してくれる。そんな気がする。だから俺は「自分が理解できる範囲で変わっているもの」を好むんだと思う。本当に理解できないものには興味がわかない。程よく難しそうなものがいいのだ。なんか頭良さそうだしな。程よく複雑な音楽聞いてると。!

アニメに対する関心が強まった!絵が動くというのが根本的に気持ちがいいことにようやく気づき、今年は実写の作品は本当に数えるほども見なかった。顔面dアニメストアのオタクの爆誕である。しかしそもそもなろう原作はタイトルが惹かれないのでここ2,3年のやつは殆ど見ていない・・・もっぱらガンダムプリキュアを見た。といっても見たガンダムはSEED無印だけである。種死は記憶から抹消した。水星も終盤がアレだったのでノーカンである。Gレコも一昨日完走した。 種無印は舞い降りる剣あたりで「ん、、、?」が発生し視聴モチベーションが死にかけたが終盤のめちゃくちゃっぷりを見るにこういうアニメなんだ、と飲み込むことで無事完走を果たした。もう少し全体的に火を通してくれればもっと積極的に話題に出したくなるアニメになったろうに若干火力をチキったっぽい。細かい部分は忘れて流すのが良いアニメだった。全体としては割りとよく出来てるというか、ちゃんと当初の脚本通りにやったんだろうな、という感じだ、と書くと自然と種死ヘイトに向かってしまうが・・・ 確かに種死と比べれば大抵のアニメは面白いが無印の良さはそれ以上に確かにあった。閃光の刻、といういかにもガンダムらしい前半の大詰め回があるのだが、そこに向けてのボルテージの上げ方がしっかりしていて本当によくできていた。あれだけゆっくりと時間をかけてキラとアスランの関係を破壊したのに修復するのは2話くらいでやるもんだから驚いた。50話あるんだから和解は48話とかで十分だろ。閃光の刻は30話とかである。40話前には和解してた気がするし、そこは不満点だった。。。 Gレコの話も早いとこ書いておくか。初見時は癖の強いメカデザイン(しかも微妙にキャッチーさやまとまりに欠ける)と異常な台詞回しなどの異常な富野演出に拒否反応を起こし何度も離脱を繰り返していたが、Gセルフのデザインへの拒否感も弱まったので劇場版をゆっくり視聴した。富野由悠季の劇場アニメはツッコミ不在のボケ倒しみたいな映画が多い(逆シャアだけのn=1印象)ので途中までは知らんVtuberの同時視聴アーカイブを裏で流しながら見た。こうしないと自分が正気を保った人間だと忘れそうになってしまうのだ。まあ死ぬほど言われていることだがあらすじを把握するだけでも一苦労の糞アニメである。大筋をもっとはっきりとさせて地球圏のゴタゴタははやく終わらせたほうが大衆受けは絶対いいと思った。実際話の中心となる戦艦が宇宙に出たあとはすぐ面白くなるのだ。4は面白いという意味である。男女関係を追いかけて見る見方なら多分2,3とかもそこそこ面白い。ただ富野アニメの集大成みたいな面してる割には、フォトン・バッテリーや水の玉といった明らかにある程度のディテールが用意されていたはずの設定が軒並み死んでいたりするのはいただけなかった。まあ水の玉は作画コストがジブリ並というか、本当にジブリ映画に出てきそうなものだったので使いにくかったのは仕方ないとは思う。

今年はプリキュアにハマった。酷い話である。受験生が学校サボって平日の昼間からプリキュアの映画見に行っていたのだ。我ながら生きていて恥ずかしいが好きになってしまったものは仕方がない。むしろ自分の愛に不誠実なやつのほうがよっぽど生きていて恥ずかしいやつだろう。痛い冗談はこの辺にして見た作品について淡々と綴ろうと思う。 まずはデリシャスパーティプリキュアである。。。これを語らなければ何も始まらない。今年の青いプリキュアが可愛いな、が俺のプリキュア視聴の最初のきっかけである。まあ本編視聴後はプレシャス推しになっていたわけだが・・・とにかくキャラデザが良く、登場人物はもれなく可愛い。大して可愛くないのはレシピッピとウバウゾーくらいのものだ。作品全体としても押し付けがましさがない。「食べる喜び」をテーマに据え共感しやすい物語を展開していたし、プリキュア達の味方をするキャラには男子中学生もオカマもおっさんもいる。そういうフラットさが作品全体を通して感じられたのは良かった。これは俺がポリコレ厨とか、そういうことを指してるんじゃなくて、シンプルにワチャワチャしていて楽しい雰囲気が作品全体から出ていた、ということだ。そのくせ終盤戦では主人公のスタンスを全否定し、鋭い言葉で彼女の歪みを指摘するものだからたまげた。そこから立ち直る段階にストーリー全体を貫くものがちゃんと作用するから話としてのまとまりも普通に良い。この作品を貶す人が結構いることに驚く。まあ作画コスト省略のために毎回メタフィールド展開するし、全体的に低コスト感が漂っていたのは割と事実だが個人的には気に入った作品だった。食をテーマにしつつも生産者に感謝しろ!とか説教くさいこと言わなかったのもめちゃくちゃ偉い。俺はプリキュアがじゃがいも掘る回とかあったら速攻視聴離脱しようと思っていたのだが、そういうのは意外にもなかった。「食べる喜び」にあくまでフォーカスしたのが嬉しかった。 ここからは完走した作品がない。ひろプリは現行なので当たり前だが一番見進めているスマイルですら完走はしていない。時間がないのも理由の一つだが、別にすべてのプリキュアが好きなわけではないのだ。そもそも作品ごとの差別化を意図したリニューアルを毎年しているシリーズなので絵柄も話の質感もひとつひとつ全く違うのだ。実際、現行のひろプリはかなり好きだが来年のプリキュアが刺さるかどうかは別問題だな、と感じている。ここまで完走をしていない言い訳を並べたが、縦軸の無いシリーズを見続けるのは結構怠い。それがぶっちゃけたプリキュアに対する実感だ、、、 ひろプリは本当に最初の5話に良さが詰まっている。はっきり言ってしまえばソラましなのだ。。。。。この作品の良さは。つばさ・あげは・エルが噛んで割りとちゃんと味出るので耐えただけで一歩間違えたらスタプリになっていた可能性すらある。ネガティブな意見を初っ端からカマしておいてからなんだが、今年一番金を落としたコンテンツがひろプリだと思う。アクリルアートボードも購入した。普通にソラハレワタール沼にどっぷりだ。彼女の良さは発展途上感にある・・・彼女の(変身後の)髪は全体的に水色だが毛先がピンク色になっている、これは明らかに夕暮れ時の空のグラデーションを示唆している。あの時間帯はよくマジックアワーなどと呼ばれているが、本当に少し目を離しただけで表情を大きく変えているのがマジックアワーの空模様である。序盤のソラハレワタールさんは特に視野狭窄的というか、ベリィベリーにも強い言葉であたっていたあたり、まだまだ発展途上であることを感じさせた、価値観も対人経験も根本的に成熟していない、無遠慮で他者への想像力に欠けている。彼女は自分の殻の中で「ヒーロー」という概念への強い憧れを育ててきたことが伺えるし、それは彼女の強さでもあるし弱さでもある。良くも悪くも世間の誰かに夢を笑われた経験がない。それが一話でべっきりと折られ、そこにスカイミラージュが生まれる。シリーズ最長の変身バンクを経て彼女はキュアスカイへ変身し、そしてあの伝説の(俺の中ではあのシークエンスはすでに伝説と化した。。。)シーン達に続く。完璧すぎるのだ・・・序盤が。ましろとの対比もきれいに効いているのがミソで、無個性・無趣味のましろにとって、憧れの姿が明確に存在し、世間の汚れを受けていないソラはとても眩しく映り、ソラにとってましろ視野狭窄・友達が一人もいなかったソラを「ひろがる世界」へ連れ出すキーパーソンなのである。互いが互いにとって眩しく映る存在、というあれは本当に尊いましろは序盤に「脇役」という言葉を自分に対して使うが、ソラとの出会いが作用し、自己実現の比喩として。プリキュアに自分の意思で踏み出す。そして伝説の5話である・・・初代8話に匹敵する。2人の人間の信頼というものを真摯に描いていると思う。「庇護欲」は信頼ではないのだ。プリキュアの変身ヒーロー物には珍しい特徴として、「変身後の名前で呼ぶ」というものがある。俺はウルトラマン仮面ライダーで育った人間なので初めて見たときにはかなりの違和感があった。これはプリキュアの変身はトランスフォームではなくメタモルフォーゼであることに起因すると俺は考えている、がそれは置いておいて、5話においてこの変身後名前呼びは対等な信頼の証としてのフックとして機能している。プリキュアでは結構しれっとされていた描写にも思うがこれを関係性の終着点として強調することができていてとてもいい回だったと思う。「プリキュア」は関係性の名前なのだ、という結論づけは腑に落ちる。 ひろプリ語りでもう一つやりたいのが賛否両論の紋ましである。アニメージュ特別号でも「後付」「当初の脚本にはなかった」ということが明言されているので大筋にカウントして良いのか?と思うかもしれないが個人的にはましろのキャラクターアークを完成させるには必要不可欠なフェーズだったと思う。 ましろに序盤で提示された課題は、「何者かになる」ことだった。結果的にプリキュアになることを決意したわけだが(「脇役」からの離別)次に彼女が取り掛かるのは趣味として絵本を書くことである。創作活動をするようになったのだ。さて、SNSの氾濫した現代において「何者か」になることは死活問題である。ましろの云う絵本作家になること、というのは多くの人の承認を得て何者かになることと同義であるといえるだろう。すると、ましろが絵本作家になることができるかどうかがキャラクターアークの重要なポイントになってくる。できなければこれまでの話は何だったのだと言う話である。しかしそう現実を甘く描写することにも問題があるように感じたのか、ましろの絵本作家志望回はましろの書いた絵本は特に身内以外からは評価されなかった、でも頑張るで!みたいな終わり方をした。これではなんとも消化不良というか、プリキュアになっても何者かになることはできませんでしたーで終わる。これに対するテコ入れが紋ましだったと思う。 かなり雑な退場をした紋田に「スキアヘッドからの承認を得られなかった」というバックグラウンドを与え、ましろと同じスタートラインに立たせた。そこからましろは落ち葉の絵本を書く。紋田はその内容に激怒する。誰の目も惹けず何者にもなれず、他の木(=何者か)の養分にされるだけの人生になんの意味がある。そう怒る。紋田はそういうまやかしに対して怒ったのである。しかしましろは紋田に対して「何者にもなれなくてもいい」と言う。他人に自分を値踏みさせるなと説いた。これはましろのキャラクターアークの完成を意味している。彼女は何者かになるという段階から脱したのだ。適当に作った敵幹部再会回ではないのだ・・・・・・