雑更新ブログ

書いては消したり 

どこにいっても幸せになれる気はしない

下書き供養です、去年の11月に書いたもの

幸せというのはふいに差し込む陽射しのようというか、ミクロな躁と鬱の繰り返しと大して変わらないというか また死にたくなって、また不意に光が差し込んでみたり、生きてみたり、セロトニンが出る感覚のせいで勘違いしたり、みたいな だからどこに生きていても陽射しが当たる場所ならば、等しく幸せで等しく不幸な気がしてしまう 陽射しがあたる場所ならば。

どこにいても幸せになんかなれやしないんだ、自分は中世貴族に生まれていても幸せになんかなれなかったという確信がある 多分上手いこと不幸を探していた、不幸を、求めていたのかもしれない 自分は不幸だという観念は人をある程度幸せにする。そういうつくりの生き物なのだ、我々は

俺は大学に行っても幸福になれる気はしない。正直わざわざ新しい人間関係、どうせ表面的でカスみたいな人間関係をわざわざ構築して大して合わない趣味嗜好を適当にごまかして生きていこうだなんて思えない。もう中高でみんなある程度拗らせてしまっただろう、趣味嗜好なんて、、、

わざわざ同じ趣味嗜好の人と繋がりたいとも思わないし(自分と同じくらいキモいことが目に見えているのでバリアを張りたくなる) 学校のように不意に人間同士の緩いつながりができるとも思わん。世の中の所謂オタクとも反りが合わんやつが多分多い。saoとか見てるやつと話せん。面白くないし。グリッドマンの話ならいいけれど。

何者にでもなれるという無責任な肯定と、何者にもなれないという少しだけ納得のいく否定が、あって、その中間には「何者かには」なれるというものがあると思うけど、それすらなくなって、今はプリキュアになりたい。何者かになる、そういう物語が降ってきてくれないかと本気で思っている。

人生にターンエンドを決め込むのはアホくさいがもう自分の人生のコマを進めたいという気持ちは無い。人の人生ならいいが・・・・