do not rondo your sorrowsの話
この曲は高校2年生の秋に作っていた曲がこじれに拗れて、2年かけて完成したというか化けたというか、みたいな曲。人生で一番執着した時間が長い曲だと思う。
実際は寝かしていた期間の方が圧倒的に長い
悲しみと繰り返しからの脱却を意図している。4.31も同じようなテーマなんだけれども。結局悲しいことは永遠に頭の中を回り続けるし葛藤はそれを否定することでしか抜け出せない。
この曲が4.31のように綺麗にまとまっているとは一切思わない、が、むき出しになることができたと思う この曲を愛せなくなって音楽が苦しくなったのだから、音楽を再び愛するにはこの曲を愛せるようになるまで付き合うしかなかった
ギターを録ったのはもう2年前になるのだから、相当な時間が楽曲の中にある もしもう一度このレコーディングをやり直せるならもっといろんなパターン(2サビのコード進行を変えてみるとか、そもそも違う調で撮ってみるとか、そういうこと)を録っただろうと思われるが、自分のパソコンで録ったものですら無いのだからもうあれの続きもへったくれもない。だから2サビを書き直した 1サビも全部書き直してるんだけどね。
1サビと2サビが違うソングライティング自体はルーシッドエンオブスキュアの段階からやっていたけれど今回は「悲しみを繰り返さない」というテーマを楽曲に持たせたかったのでそれを示す形でやった 曲名に補足を入れる 繰り返し=rondoです
繰り返しにrondoという言葉を使ったのは完全に少女歌劇レヴュースタァライトの影響だけれど、英語ではない異物のような単語を入れることで曲名に二重性を持たせることができた
というのも、いくつかの翻訳サービスにこのタイトルを入力すると「悲しみを長引かせないでください」「悲しみをわすれないで」という真逆とも取れる和訳が表示される これは全く意図していなかったが嬉しいものになった どちらもニュアンスとしては存在するから
どうしてなのかは逆にわからなくなってきたがポップソングは同じサビを何度も繰り返す。音楽を作るうちにそれが根本的に理解できなかった なぜか皆サビを早く持って来ることに固執する 歌い始めるまでに2分かかる曲でもいい曲はたくさんあるのに でも俺はそういう強迫観念に駆られていた
作り終わるまでにすごく時間がかかったし、その間に色々なものを失ったり得たり、壊したり、した
でも、そこから永遠に抜け出さないことはできない
そこで眠り続けることや、泣き続けることはできない 生きていかなければならない
そういう祈りも入っている
ただ未来を迎えるのではなく、迎えに行こうと思った だから今も生きている
最近は映画を見ている
このブログに新しい文章を投稿しようとしては途中で書き止まってしまって投稿しない、というのを何回か繰り返している間に19歳になってしまいました。
意識的にブログに投稿するために書いた文章を投稿するのは去年の10月ぶりになるのでは?
本当は自分の人生がどう変わったか、それに対してどう感じたのか、とか、色々吐き出してしまいたかったけれども、文章として全て吐き出すことができなかったので、(何回か試みた) ただ純粋に自分の趣味嗜好というか、普段やるようになったことのことを書く。好きなことを書かなければ生きていけない。
映画を見るようになった。別にそんなにたくさん高い頻度で見ているわけではない。所詮ファッション程度ではある。しかし、昔は全然見ていなかったのだからそれに比べたらだいぶ見るようになった。実写の映画をちゃんと見るようになった。
アニメを見なくなった。昔と比べると本当にアニメを見なくなった。プリキュアも深夜アニメもろくに追っていない。
今は昔より激情の中に生きていないのだ。激しい感傷の中で走っていた。
ティーンエイジャーは終わりつつあるのだ。日々は輝いていない、もう輝いていないのだ。未知数の部分がどんどんなくなっていく。自分は大体こんなもんだ、みたいな感じで自分の影が規定されていく。自分でもそれがわかっていく。もう何にでもなれるなんてことはないと錯覚していく。そういう絶望に抗う力がなくなっていく。昔からそんな絶望は常にあったはずなのに、いつから俺はべっきりと折られてしまったんだろう。
どこにもいけないという思いが強くなっていく。どこにでも行けると思っていた自分の愚かさを知る。どこにもいけないのならどこかに行ける道を選んだ他人の賢さが理解ってくる。生まれた時からどこにもいけなかったのも、今もなおどこにもいけないままなのも、俺だけだ。そういう声が聞こえる。
どこにでもいけたのはいつだったんだろうか、本当に最初からどこにもいけなかったんだろうか。
昔から痛みはたくさんあったのに、今はそれらに耐えられない。
どこにいっても幸せになれる気はしない
下書き供養です、去年の11月に書いたもの
幸せというのはふいに差し込む陽射しのようというか、ミクロな躁と鬱の繰り返しと大して変わらないというか また死にたくなって、また不意に光が差し込んでみたり、生きてみたり、セロトニンが出る感覚のせいで勘違いしたり、みたいな だからどこに生きていても陽射しが当たる場所ならば、等しく幸せで等しく不幸な気がしてしまう 陽射しがあたる場所ならば。
どこにいても幸せになんかなれやしないんだ、自分は中世貴族に生まれていても幸せになんかなれなかったという確信がある 多分上手いこと不幸を探していた、不幸を、求めていたのかもしれない 自分は不幸だという観念は人をある程度幸せにする。そういうつくりの生き物なのだ、我々は
俺は大学に行っても幸福になれる気はしない。正直わざわざ新しい人間関係、どうせ表面的でカスみたいな人間関係をわざわざ構築して大して合わない趣味嗜好を適当にごまかして生きていこうだなんて思えない。もう中高でみんなある程度拗らせてしまっただろう、趣味嗜好なんて、、、
わざわざ同じ趣味嗜好の人と繋がりたいとも思わないし(自分と同じくらいキモいことが目に見えているのでバリアを張りたくなる) 学校のように不意に人間同士の緩いつながりができるとも思わん。世の中の所謂オタクとも反りが合わんやつが多分多い。saoとか見てるやつと話せん。面白くないし。グリッドマンの話ならいいけれど。
何者にでもなれるという無責任な肯定と、何者にもなれないという少しだけ納得のいく否定が、あって、その中間には「何者かには」なれるというものがあると思うけど、それすらなくなって、今はプリキュアになりたい。何者かになる、そういう物語が降ってきてくれないかと本気で思っている。
人生にターンエンドを決め込むのはアホくさいがもう自分の人生のコマを進めたいという気持ちは無い。人の人生ならいいが・・・・
凛として時雨が目の前に居た話。
忘れないうちにこのことを書きます。凛として時雨のライブを見ました。高松のオリーブホールっていう、多分かなり狭い部類に入るライブハウスで見ました。僕は前から3〜4列目だった気がします。TK側に行ったので目合いまくりました。
正直に感想を投げると、めちゃくちゃ高いリフレッシュレートのモニターで凛として時雨のライブ映像を見ているみたいな感じでした。結構ネット上の映像は見てきたので新鮮さがない。まあこういうアレンジよね、とかはだいたいわかる。そもそも狙い通りにミックスされた音を高いイヤホンを通して聞く体験と、今聞こえているのが耳鳴りなのかハウリングなのか区別がつかないレベルの爆音を出すことを優先した音響で聞く体験のどちらが理想の鑑賞に近いかなんていうのはわかりきった話なのだ。
それでも俺の足はガックガクだった。TKがこの世に実在することすら俺の中では不確かだった。画面の中のアイドルだったのだ。それが、目の前に居た。345は本当にライブ中に物販紹介をするのだ。そしてピエール中野は本当に早口の寒い(褒め)mcをするのだ・・・・竜巻旋風バンド・凛として時雨は、実在したのだ。その事実がただただ衝撃的だった。Super Sonic Aurorallyがセトリの中では一番好きだった。seacret cmのテンポチェンジやってくれたらそっちが一位だったかも。
かつて夢中になってた頃の記憶に縋り付いているだけ
痛々しい話です。
人の趣味は・・・変わる。変わらない趣味もある。でも大抵は変わる。
TKのファンクラブに毎月金を払っているが、俺は月に一回もそれを開かない。でも払うのをやめてしまったら愛がなくなったみたいで嫌だ。でも開かない。ライブの映像作品も何個か持っているし昔はfloweringのstudio liveとかも手に入れることを画策していた。でも今はもうその情熱がない。アコエレのライブ盤を手に入れても大して聞かない。その程度の愛になってしまったのだ。陶酔していた時期、毎晩ライブ映像を見て恍惚としていた時期にはもう戻れない。もう戻れないのだ。きっと。
それでも俺は「凛として時雨が好きな自分」を保っていたいのでチケットを取る。ギターの電装系もTKシグネチャーと同じものにする。凛として時雨が書籍・webメディアで言及される度に内側で喜々としている。瞬間最大風速を完全に失ったのにも関わらずだ。
一生涯めちゃくちゃ傾倒した音楽だけを聞いて過ごせるわけがないのに、僕は凛として時雨から離れられない。離れたら外界の他の人間、フツーの音楽を聞いている(この表現が既に痛々しい)連中と同じになってしまうと思い込んでいる。変な音楽を聴くことをアイデンティティにしてしまった。自分自身が社会に馴染めない、馴染む努力をすることが苦痛になったことと、凛として時雨を重ねてしまった。そうやって逆張りを繰り返してしまった。でもその逆張りすら飽きてしまった。
もうjust A momentを毎日聞くことに喜びが見いだせない。floweringで泣けない。それなのにそこから離れられない。好きになる努力をする気力もないのに。
新しいアルバムが出る。殆どシングル曲の寄せ集めではあるが。ネットではこれに対してネガティブな意見もたくさん出ている。#5という前例があるせいか。自分も半ば失望した。今日の今日まで予約していなかったせいで買うことそのものに迷いが生まれてしまった。こんなんで何が信者なのだ。全然愛せていないじゃないか・・・・
やめよう ドライフラワーに水をあげるのは
愛されたいが愛される要素がない 愛したいが愛せる要素がない
例えばオタクであることをアピールして喜ばれる人になりたい。「ゴジラ対メガロでガイガンがくそ雑に登場するところが好き」とかツイートして、いいねを貰いたい。貰える人になりたい。
自分が人生を費やしてきたものを褒めてもらいたい。それに尽きるのだ、俺の願望は。音楽だろうがオタクアピールだろうが関係ない。俺の心臓はそれだったのか。今や何一つ生み出せない無産そのものだというのに。なにか生み出したって大した評価を得たこともなかったのに。多分愛されたいのだ今でも。
人の評価のためになにかをすることが嫌いだ。自分の殻に籠もって誰も喜ばない音楽だけ作れたら何者にも傷つけられずに済んだだろう・・・
それと同時に人に評価されることを潜在的に望んでいるし第一、この世のすべての音楽を俺が作ったのではない限り、人の音楽と自分の音楽を比べてしまうのは避けられないだろう。他者の作ったものを真似ることから全ての創作が始まっている以上他者の居ない世界で創作は成立し得ない。矛盾しているのだ、俺が望んでいることは。自分の作るもの全てが他者からべた褒めされない限り、妄想は実現しない
ならどうすれば俺は俺のしたい創作ができる。一つは経済的な自立を得、誰の評価も気にする必要がない次元に行くというやり方だ。自分の資本は他にある、作品が誰にも褒められなくても平気という考え方、逃げ方だ。もっともそこまで行けば皆お世辞を言うようになるとは思うが。
二つ目は、徹底的にトレンドを研究し、褒められる作品だけを作る。褒められる作品を作ることだけが俺の悦びなのだ・・・というパターン。これが出来たら悩んでない。メンタルぶち折れの日々。強靭なメンタルと狂人並の承認欲求を必要とする。別に韻を踏みたかったわけではない。
どちらも難しいし結局俺の欲求を完全に満たしてくれるものではないのだろうな、となんとなく思う。俺のスタンスを変えるしかないのかもしれない。第一「人の評価のためになにかをすることが嫌い」だなんて逆張りだ。人間には承認欲求があるのだ。そして自分にもあると、日々実感している。相反した感情、チックなことを言いたいだけで本当は愛されたいだけなのだ。
でもどうすれば愛されるのか分からないのだ。それは俺自身の他者への愛が曖昧すぎて、自分の愛の形を理解できてないからなのだろう。自分を愛したかったら他者を愛さないといけない。
それと同時に俺は俺自身を愛さないといけない。己の作品への肯定感が低すぎる。だから禄に他者の作品を見ることもできない。怖いのだろうか。
怖い。自分自身が否定されたような気分になる。これが解消されない限り俺は前に進めない気がする。
書いてたらめちゃくちゃ惨めだし飽きたのでガンプラ作りながら寝ます シナンジュスタインはかっこいいぞ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
承認欲求が満たされた
曲が1週間くらいで300回くらい聞かれた。まあニコニ広告(自分が1万ポイントくらい+打ってくれた人達の分)してるので、いきなり動画紹介でたまたま飛ばされなかった回数も入ってるだとか、そういうのは分かってる。でも自分の作った音楽もどきが30回以上聞かれるとか初めての経験なので全然承認欲求は充たされてる。少し調子に乗りかけてるくらいだ
特定のジャンルに嵌った曲を作りたい。そういう風に最近は思ってる。知らなかったけどシューゲイザーって本当に全く売れ線じゃないんだね。